岡部さんへ
岡部さんの文章を拝読させていただきました。整理されまとめられた言葉の裏に、その時々にどれだけの不安や無念、葛藤があったのだろうと想像しました。自分一人すらも救えないでいる私のような愚図愚図とした人間から眺めれば、岡部さんのような方は遠い遠い存在であるように感じていたのですが、今よりもっと制度や介護など患者を取り巻く環境の整わなかった当時、岡部さんの葛藤のいかばかりであったろうかと、今更に思いました。この病気になって生き死にについて毎日を悩まずにいられる人はいないはずであって、今も何処かで仲間たちが周りに言えない壮絶な煩悶を胸に抱えているのだと想像しました。
私は、この毎日と一人で闘うしかないのだと思いながら、いつの間にか孤独というのではない歪み切った諦観のようなものが腹の中に出来つつあって、それは私の思いを、生きていくための煩雑な現実よりも静かで面倒のない(と思ってしまっている)死へと自然に傾かせようとします。それは私自身の、自己肯定感に乏しく人間不信であるというような個性だったり、戦史小説が好きで、多くの才能に恵まれた人々が命を落とさねばならなかった時代の空気に触れることが多かったりというようなつまらない理由によるものかも知れませんが、私のような何の才もない人間の生き延びねばならない意味がよくわからなくなって、でも生きていたいと自然に思えてしまうことは間違いなく、呆然と立ち尽くすばかりです。生きたいから生きる、でいいじゃないかと思い直すのですが、私のねじ曲がった個性に加えて患者が生きるための社会資源の確保が容易でない現実を知れば知るほど、「当然に生きる」と思うことは難しく感じます。岡部さんにならと、こんな取り止めもなくもやもやとした文章を甘えに任せて書いてしまいましたが、今の私が正直に感じていることです。
「介護を受ける為に生きているよう」-介護者の手配や調整に頭を悩ませ膨大な時間を割かれなければならない患者の現実を想像し、頷かずにはいられませんでした。やや内容は異なりますが、私などでも治療やリハビリなど命を繋ぐための作業に一日の時間が過ぎて、ただ明日まで生き延びるために今日を生きているのだと感じること屡々で、素直に生きていることを喜ぶべきなのでしょうが、時折訳がわからなくなります。
「生きていく決意をすることと生きていけることは別」というのは常に考え想像するところです。多くの先輩方がその遥か高い壁を前に立ち止まらされ、それぞれの御決断をされたのも、壮絶な葛藤の末なのだと胸が詰まります。どんな風に生きよ、とか、どんな風に生きるな、などといった”模範”なんて絶対に無いのだと思いますが、生きたいと思う人が、その人の望むように生きられる社会を求めていくのは誠に必要な変革なのだと思います。
生きる決意などわざわざせずとも漫然と生きている時間が長くあったはずなのに、突然に生きるか死ぬか決めなさいと迫られ、自在に自己決定出来るかの如く周囲に思われて益々心を閉じ、一人で抱えねばならないこの決断の残酷さに何も手がつかなくなる時があります。こんなんじゃ生きていても仕方がないかな、と。岡部さんの文章を拝読して、こうしてご自身の体験を詳らかにし、仲間たちのために、ひいては社会のために動かれている岡部さんのお考えの一端に触れさせていただいて、患者として仲間として、心を動かされました。
落ち着いた言葉で綴っていらっしゃる文章の向こうで、岡部さんはその時々にどんなことを思っていらっしゃったのでしょうか。もし岡部さんがお嫌でなければ、いつか少しずつ、お話をお聞きしたいと思いました。
もし見当違いの解釈をしてしまっているようでしたら申し訳ありません。伝えたいことはそういうことではないと、ご面倒でなければいつか教えていただけましたら嬉しいです。
大事な文章を読ませていただき、有難うございました。
少しずつ暖かさを感じるようになりましたね。またお会いできます日を楽しみにしております。
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