「声を上げればいいじゃないか」
「声を上げればいいじゃないか」「僕だったらちゃんと声を上げるけどね」
そんな”声”に、またかと黙ってしまう私。私は思う。だって、今まで私の声をちゃんと聞いてくれたことなんて無いじゃない。あなたたちはどうせまた私の声を、無意味だと取り合わないで、都合よく曲解して、挙句の果てに面倒だと切り捨てるだけでしょう?そんな辛く悲しい思いはもうしたくないもの。僕だったら、なんて、強者の論理を私に押し付けないで。
「声を上げればいいじゃないか」という理屈は、「黙っている奴が悪い」という考え方と背中合わせだ。黙っていれば何も伝わらないのだし、それでもあなたが声を上げないというのなら、それはあなた自身による選択なのだから、その結果がたとえどんなものであっても当然あなたはそれを受け入れるべきだ、というやつだ。求めよ、さらば与えられん。そう、「黙っている奴が悪い」のだ。
自分の声が誰かに耳を傾けられ、確かに伝わり尊重され受け止められた、という成功体験は、声を上げることへの自信を生む。自分の声、言葉の持つ力を実感し、自分自身という存在そのものに備わる価値や、自分の声を受け止めてくれる他者の存在を信じられるようになっていく。声を上げるという行為に期待や希望を抱くことが出来るようになり、こんな風に思えるようになるはずだ。誰かに何かを伝えたいのなら、言いたいことがあるのなら、正々堂々、声を上げればいい。要望も不満も疑念も賛同も異議も批判も、あらゆる意見、主張は声に出していいのだ。そうすればその声は必ずや相手に伝わり、受け止められるであろう、と。
では逆に、自分の声が持つ力や、自分自身に備わる価値や、自分の声を受け止めてくれる他者の存在を信じることが出来ないとしたら、どうだろう。自分の声が黙殺され切り捨てられ、疑われ誰にも信じてもらえなかったとしたら。一人ぼっちで自分の声を受け止めてくれる相手がいないとしたら。日々に疲れ果て、声を出す力も尽きて、誰かに受け止めてもらうことを諦め下を向きため息をつくことしか出来ないとしたら。俯き肩を震わせるあなたに向かって掛けられる「声を上げればいいじゃないか」という”声”を、あなたは受け入れることが出来るだろうか。「黙っている奴が悪い」という”声”は、声を出せないでいるあなたを断罪し追い込んで、あなたの声をますます奪ってしまうのではないだろうか。
声を上げることさえ、出来ない人がいる。そのことへの想像力を持たない人の振りかざす強者の論理を、そして「声を上げればいいじゃないか」などという優越感混じりの抑圧的な常套句を、私は認めない。
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