「誰だって明日死んじゃうかもしれないわけだから」
私にとって書くことは、自分の手で自分自身の像を作り上げるのに似た行為だ。言葉という粘土の塊を一握りずつ地面に叩きつけ、少しずつ少しずつ積み上げて、徐々に自分自身の像を起こしていく。今こうして書きながらも、私は文章を作ることの困難を遥かに超えて、この世界に自分自身を作る作業がまた一歩進んでいくことの喜びを感じる。たとえそれが、小石の混じった垢ぬけない泥人形であっても、だ。
しかしそんな私の言葉への思いは、その強さ故に、時に言葉に対する戸惑いに変わっていく。そして戸惑いは次第に苛立ちや失望へと変異して、私はそれを持て余すようになっていく。
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不治の難病患者である私に対して、「誰だって明日死んじゃうかもしれないわけだから、みんなあなたと一緒だよ」ということを言う人がいる。瀕死の病人に向け、したり顔の口から垂れ流されるこのアリガタイお言葉を、私は何度耳にしただろう。奥歯を噛みしめ湧き上がる憤怒を堪えながら、私は幾度この言葉をやり過ごしてきただろう。
互いに生き物であるのだから、いつかは死ぬ、というのは確かに「一緒」だろう。しかし、日々病気の進行に怯え、出来なくなっていく動作の一つひとつに肩を落とし無念の涙を堪えながら、この病でこの社会に生きることのままならなさと、この先の不安と恐怖と、残された時間の中に予想される大きな困難とわずかな希望とに向き合う日々を、すべてまるっと無視されて、「明日死んじゃうかもしれないのはみんな一緒」などと死ぬ瞬間において乱暴に纏め上げられ、いのちに向き合いながら生きている日々の時間までも、そんなのは「みんな一緒」であると、だから悩むほどの問題でも、大したことでもないと言わんばかりに総括されてしまうのは、いかにも辛い。明日死んでしまうかもしれない、なんて本気で一瞬も想像せず恐怖せずに毎日を過ごすことの出来ているあなたに、明日死んでしまうかもしれないという切実な恐怖と離れ難い私の毎日を1ミリも真剣に想像されないままに、「みんな一緒」だなどといい加減に括られ、結論されるのはまっぴらごめんだ。
「みんなあなたと一緒」と言う人たちはきっと、そう言ってみせることで、私の闘病の、苦悶の時間を、無いことにしたいのだろう。そんな面倒で辛気臭くてどうにもならないことなんて、考えたくもないのだろう。世間話として適度なやり取りを成立させたうえで、一刻も早く話を逸らせたいという気持ちから、一秒も真剣に思考することなく、どこかで聞いたような言葉を口先だけで反射的に言ってみただけなのだろう。私がその言葉をどんな気持ちで聞くかということなど、微塵も考えずに。
だったら、本当のことを言えばいいじゃないか。私はあなたの闘病にもあなた自身にも興味はないと、堂々と言えばいい。面倒な話題には触れたくないと、胸を張って言ったらいい。言いたくないのなら黙っていればいい。通りいっぺんの借り物の言葉で無自覚に(そしておそらく不本意に)人を傷つけるくらいなら、私は、それがたとえどんなに残酷な内容であったとしても、自分の言葉で本当のことを話してほしい。私の日々が「みんなと一緒」などと乱暴に一括りにされ、“個“として存在しないことにされてしまうことの絶望に比べれば、自分のいのちの問題が、目の前で安っぽい定型句の中に自動処理されていくことの無念に比べれば、たとえば私という個人があなたに興味を持ってもらえていないとか、あなたに疎んぜられているとかいうような切ない事実の方が、私という個人に向けられた真実であるというだけで余程価値がある。私のことなどに大して興味は無いと、正直に明確に宣言してもらった方が、ずっと清々しいと私は思う。
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先日、私はテレビ番組に出演する機会があった。いくつかの必要などから、久しく会っていない友人知人らに放送前に連絡をとり出演について伝えたのだが、そこでの反応で多かったのが、テレビ出演をまるで慶事であるかのように喜び、はしゃぐものだった。
私は混乱した。これはいったい目出度いことなのだろうか。なぜ祝福されなければならないのだろうか。不治の病であるALSの患者たる自分が、その患者であるという理由からそうした問題をテーマに扱うテレビ番組に出演するに至ったことが、どうして喜ばしいことなのだろうか。いや、声を掛けてくれた人びとはきっと、特段どうという意図もなく、親しみを込めてそれらの言葉を口にしてくれたのだろう。しかし、数多ある言葉の中からその言葉を選択しているということには、それなりの理由が必ずある。私はその祝福の言葉を、どう捉えたらよいのだろう。そこはかとなくかなしく釈然としないこの気持ちを、私はどう整理したらよいのだろう。
相模原市長が東京パラリンピックの聖火を津久井やまゆり園で採火しようとし、遺族や被害者家族らの反対を受けて一転中止したことを私は思い浮かべた。そこにある一人ひとりのかけがえのない思いが、痛みや苦しみやかなしみの一つひとつが、すべては世界的大イベントの前に、その地がメディアで注目されることの前に、置き去りにされてしまったのだと、私はあの時に感じた。テレビに取材される私は、知人らの浮き上がるような喜びの言葉を受けて、テレビ出演という”慶事”の前に、すべての私のこれまでの時間がまるで無いことにされてしまったような気がした。私の個人的な痛みや苦しみやかなしみの日々などはすべて、テレビ出演という”慶事”のための、無機質なお膳立てでしかないと宣告されたような虚しさを覚えた。
私は、自分がALS患者でなかったとしたらどうであろう、とも考えた。私がもしも、許されざる凶悪犯罪の被害者だったとしたら。事件や事故に巻き込まれ心身に深い傷を負った人の家族だったとしたら。大切な人や生活の場所を奪われてしまった自然災害の犠牲者だったとしたら。そうした人としてテレビに取材されることになった私に、私の周囲の人たちは果たして喜びの言葉を掛けるだろうか。すごいね、いいねと、言うのだろうか。
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私にはわからないことが多すぎる。そして私は、自分の拙い言葉をつかって、こうして全力でそのことについて考えることしか出来ない。
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