私が<この私>であるという偶然について
ああそうだったのか。私は私が<この私>であることの偶然を、それがまったくの偶然であって、まさに偶然でしかないという感覚をいつも傍らにしながら生きてきたのだ、ということに、今さらながら気付く。
私が現代という時間に、日本に生まれ生きているという偶然。女という性に生まれつき、こんな容姿で、たまたま両親の間に生まれたという偶然。こんなくらいの運動や芸術や語学や理数のセンスしかないという偶然。だから私はこの程度でも仕方が無いという言い訳であったり、過去の私自身の行為への免責であったり、運命論的な諦観や責任放棄についてであったり、そんなことを私は主張したいのではない。個人の努力や選択や、そういうものの存在し得るもっと手前の、存在の偶然について、私が<この私>として生まれて今あることは、私の積極的な選択のうえにある現実ではなくて、受け取るしかなかった偶然なのだというシンプルなことについて、私は言っている。
私が<この私>であることはたまたまの偶然である、という感覚を、私はどこかでずっと手放さずに生きていた。それは信念のような硬直したものではなくて、気付いたらいつまでも手の中にあったというような、自然の感覚だった。私は、私が<この私>であることが必然であってそれ以外はあり得ず、そうでなければならないというような確信も、今いる世界の当然の前提であるという揺るぎない感覚も、ただ自然と、持つことがなかった。
発症するのは10万人に1人、という難病に罹った私に、人びとは「なんで私が、って思ったでしょう?」と何度も(そう、何度も)聞いてきた。返事など聞くまでもない、といった態度でこう言われるたびに私は、イエスという返事以外はどうせ許されないのだろうと曖昧に笑ってやり過ごしてきた。「いや、そんなことまったく思ったことなどないのだが」という私の感覚の本当のところなど、この世間話には一切求められていないことも、それが伝わる可能性は微塵もないということも、私は承知していた。「なんでよりによってあなたがこんな病気に」と眉を寄せながら言う人も、幾人もいた。私はそんな言葉を聞くたびに「じゃあ誰だったらよかったというのだ」と思わず叫び出しそうになるのを堪えながら、心の眼で相手を睨みつけた。
<この私>が、なぜ10万人の中の1人と思わずに、私だけは特別な場所にいて、私以外の人とは何か本質的に異なるはずの私だと考えるのだろう?私が<この私>として生きていることは受動した偶然でしかない。その驚くべき偶然に比較したら、そんな私がどんな珍しい病気に罹ろうとも、私が<この私>である偶然を越えるものではまったくない。負け惜しみでも信仰でもなく、それが私にとっての自然だ。
私は史実に基づいて書かれた、いわゆる記録小説を読むのが好きだ。ここに今こうして生きている私の偶然が、何か大きなものの膝に載せられ頭を撫でられて、「私であったかもしれない人」らの話を聞かされているような、そんな心地よさをいつも感じる。時代も、生まれた地も家も、身分も性別も才能も、その数奇な運命も、すべては私が<この私>であるという偶然と同じほどの偶然であったのだと考えるとき、今ここにいる私も同程度に相対化され、時間と地平の遥かな軸の中にふわりと浮き上がる。
ニュース映像の向こうにも、「私であったかもしれない人」たちがいる。この国をとりまく海の遠く向こう側に。十分な食料や医療や教育や清潔な水や、奪われ誘拐され殺されない日常や、言論や表現やその人として生きる自由のすべてが、当たり前ではなくなってしまっているあの場所に。
あの場所にいる人の偶然と、私が<この私>であることの偶然は、同じ偶然で結ばれている。
-『人間の生のありえなさ <私>という偶然をめぐる哲学』脇坂真弥(青土社・2021)を読んだ日に
0コメント