透明人間
例えば駅で。友人と、車椅子の私。改札で障害者手帳と切符を提示し、駅員に目的の駅まで行きたい旨を告げる。コンコースのとある場所を指定され、そこで友人と待っていると、スロープを片手に駅員が小走りでやって来る。「お待たせしました」と、駅員が友人に向かって頭を下げる。先に歩き出す駅員の後を追って、友人と私はホームを中ほどまで進む。
駅員は振り返り、私のすぐ横に立つ友人に向かってこう尋ねる。「こちらの乗車位置で大丈夫ですか?車椅子用のスペースがある車両になるのですが」。友人の顔に困惑の表情が浮かぶ。車椅子の私が、下の方から大きな声で駅員に言う。「はい。ここで大丈夫です」。駅員は友人に向かい「ではこちらでお待ちください」と言ってほほ笑む。しばらくして駅員が思いついたように友人に話しかける。「降車駅はホームが少し狭いので、車椅子は気を付けてくださいね」。友人は気まずそうに下を向く。私は「あ、有難うございます」と駅員に礼を言い、続けて「この次に来る電車ですか?」と尋ねる。駅員は友人に向かって「いえ、次の次、の電車です。お待たせしてすみません」と、申し訳なさそうに頭を下げる。
例えばギフトショップで。知人に贈るプレゼントを選んで、同行の介助者とレジカウンターへ行く。介助者に手伝ってもらいカウンターに商品を置きながら、「プレゼント用のラッピングをお願いできますか?」と車椅子の私は店員に言う。店員が「包装紙が3種類ありますが、どれにしますか?」と、介助者にサンプルを見せながら尋ねる。介助者が私の方を向き、どうする?という表情をする。私は「では、このグリーンのリボンのやつでお願いします」と店員に伝える。
「お会計は〇〇円です」と店員が介助者に言う。私は自分の財布からクレジットカードを出して店員に渡す。店員はボタンのついた装置にクレジットカードをさしこみ、「暗証番号を押してください」と、その装置を介助者に向ける。私は「手が届かないのでサインでもいいですか?」と店員に尋ねる。店員は頷きながら、小さなバインダーに挟まれた紙とボールペンを介助者に差し出す。私は介助者からそれらを受け取り、サインをして店員に返す。店員はレシートとクレジットカードを介助者に手渡しながら、礼を言う。私は介助者からそれらを受け取り、自分の財布に入れる。「ラッピングは、こんな感じでいいですか?」と、店員は介助者に確認を求める。私は「はい。大丈夫です」と答える。店員はラッピングの施された商品を介助者に手渡しながら、深々と頭を下げてこう言う。「お買い上げ有難うございました」。
スロープでの介助を必要とし、車椅子で電車に乗るのは誰か?代金を支払い、商品を購入するのは誰か?なぜ駅員は、店員は、それらの行為の主体であるはずの私とは目も合わせないのか?なぜ誰も、私とは口をきいてくれないのか?
駅やギフトショップだけじゃない。カフェで、コンビニで、街のあちこちで。私は透明な存在になり、”ここにはいない”人間となる。
***
15、6年ほど前になるだろうか。私が病気を発症する以前、車椅子を使うことなく歩くことが出来た頃のこと。私は子どもが転校した先の学校で、「まだ何もやっていないから」という理由でPTAの委員を引き受けなければならなくなった(転校前の学校で何年も執行部役員を務めた、などという言い訳はいくら事実であっても当然通用しない)。
その転校先のPTAで、私は、生まれて初めて〈いじめ〉に遭った。子どもと同じ学年の、保護者からの〈いじめ〉だった。私は最初、それに気がつかなかった。その人たちは事あるごとに私に対し嫌味っぽく強めにものを言ったり、居丈高な態度をとったり、私を会話に混ぜないように目配せをしながらクスクスと笑い合ったりしていた。なんか変だ、と思い始めた私に、それが〈いじめ〉であると認識させた決定的な出来事があった。それは学校の廊下でのことだった。私のすぐ目の前に立つ保護者の一人が、私の方に顔を向け話しかけてきた。確かベルマークのことだったか、皆で取り決めた些細なことについてだったと思う。私はそれに応じるために、口を開き話し始めた。すると私のすぐ後ろから、返事をする別の声が聞こえてきた。私を挟んで立っていた二人の母親は、まるで私がそこにいないかのように、私の身体を通過させるようにして会話を続けた。目の前にいるはずの私に一切視線を向けず、私越しに喋りつづける彼女らには、私の身体はまったく見えておらず、私は最初から存在していないかのようだった。私は、自分が透明になってしまったような気がした。彼女らの目の前にいるはずの私は、無視され、疎外され、”ここにはいない”ことにされた。私は、ああ、私は〈いじめ〉に遭っているのだと全身で理解し、それが学校という場所でPTAの保護者らによって行為されていることに、吐き気がした。
***
駅で、ギフトショップで、街のいたるところで、私はいつもこの15、6年ほど前の出来事を思い出す。彼らの目に、私は見えないのだろうか。私は透明になったのだろうか。私はなぜ今ここで、この人びとから、日常の風景から、何気ない社会の営みの中から、疎外されなければならないのだろうか。なぜ彼らはこれほどまでに徹底して、ただの乗客であり買い物客であり一市民でしかない私を、"ここにはいない"ことにするのだろうか。
車椅子ではなかった数年前まで、私は、駅やギフトショップや街のあちこちで、こんな思いをしたことは一度もなかった。であるならば私は、車椅子であることを理由に態度を変えられたということになる。車椅子の客に対する合理的配慮に基づく態度の変更というのであれば私は理解も納得もするが、私に与えられたのは、車椅子であることに起因した単なる会話の拒否であり、無視であり、ただの疎外である。
駅員や店員に明確な差別の意図はなく、意識的にそのように振舞った訳ではないと、あなたは彼らを擁護するかもしれない。しかし仮にそうであったとして、私の痛みは消えることも癒えることもない。彼らの行為が意識的なものでも作為的なものでもなく、それが身体に刻み込まれた当たり前で自然な振る舞いであるということに、私はますます心を暗くする。そして、彼らの肩を持ち"われわれ"の免罪を主張するあなたの態度に、私は孤立を深めていく。
私は、一生このまま、透明人間であり続けるのだろうか。
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