どうでもいい話

私は人見知りだ。

仕事の場面や、何らかの義務や必要性が生じていると認められる場合には、役割としてそれなりの社交性を持つ人間を演じることが出来ると自負しているが、根っこはガシガシの人見知りである。


特に苦手なのが、大勢でいるときの雑談。よほど集中し気合を入れないと、その会話の大縄跳びに入るタイミングが掴めない。話し相手が一人であっても、何気ない世間話をしているときなど、私はだんだんと声が小さくなってしまう。「え?」なんて聞き返されたら、もうアウト。余計に声が出なくなる。「いえ、もういいのです。何度も耳を傾けていただくほどの内容ではないのです。面白くもなんともないのです」と言いたいのを必死で堪えながら、私はたった今喋ったばかりの言葉をモソモソと繰り返すことになる。


今ここで交わされる会話に私の付け足そうとしている情報など、あっても無くてもどちらでも構わない程度の、取るに足らないものである。それに何より致命的なこととして、そもそもほとんどの場合、私自身がその会話の内容にあまり興味がない(興味がある場合、それはそれで邪魔をしないでいようと聞き役に徹してしまう)。だから、とても関心があるような態度で周りの人にいろいろと質問をしたり、話題提供したりして会話を盛り上げている人を見ると、本当に凄いと思う(皮肉ではない)。おそらくきっとこの人も、今ここで展開されている話のテーマにも目の前にいる人たちに対しても、飛びつくほどの興味関心があるわけではなかろう。でもこの人は、この場の雰囲気をよくするためにと一生懸命に盛り立て役を引き受けている。こういう人のことを”大人”というのかもしれないな、などと思う。

一方、私みたいに、その方向の才能が無い人間は、迂闊に同じようなことをしようなんて思ってはいけない。おそらく、大縄跳びのロープに思いっきり足を引っ掛けて目の前にいる人たちに余計な気を遣わせてしまうか、もし仮に会話がそれなりに続いたとしても、私はそもそもあまり興味の無いことを相手に対し形式的に質問してしまっているので、たった今聞いたはずの答えをきちんと記憶することが出来ず、次に会ったときにも(下手をしたらその会話中にも)同じ質問を何度も繰り返し、相手や周囲に「なんだ?こいつ」と思わせてしまいかねない。何より「そんなくだらねえ質問すんなよ」と相手を苛つかせ、ここにいる人たちの心の中にある<気の利かない人リスト>に一瞬でファイリングされて、場の空気を何とも言えないものにさせてしまうのがオチである。


特に私は、私自身の経歴や病気のことや、私の趣味や興味や関心事や、何かに対する私自身の感想や意見を尋ねられるのが苦手だ。なぜならそんなもの、自分以外の誰ひとり(そう、誰が何と言おうと誰ひとり)興味がないはずだからである。

だから私は、世間話の流れで私自身のことについて質問が向くと、とんでもないレベルの気遣いを相手にさせてしまっているなあと感じ、いたたまれなくなる。そして、質問に応じて話し始めるや否や、頭の中ではもう早速、後悔し始めている。-「あーあ、この人にとってどうでもいいことを、私は今から話すんだなあ。本当は興味が無いけれど会話が持たないから仕方なく質問してくれたんだよね。なんかごめんね。きっと退屈でウンザリしているよね。ごめんごめん。早く終わらせるからね」と。


なぜそんな風に思うのか、と問われても、「私だから」「私のことだから」としか言いようがない。

私以外の人が同様の事柄について何か話をしていても、そしてそれが、私にとって腹の底から「どうでもいい」と思ってしまうような退屈なものであったとしても、あるいは「それ間違っているよね」とイライラしてしまうような不正確なものであったとしても、「私でない人」の発言であるというだけで、きっとこの世界に必要とされ認められ祝福されるのだろうなと、私は思ってしまう。そんな「私でない人たち」の言葉の煉瓦を高く高く積み上げて、この世界というものが構成されているような感覚を、私は抱いている。そしてそこには、いつだって「私の言葉」はまったく求められていないし、どちらかといえば余計ですらあるということを、私は漠然と、しかし固く信じている。

ここで勘違いしないでいただきたいのは、私は卑屈になっている訳でも、自分に自信を失っている訳でも、こんな自分の特性をダメだとか直したいとか思っている訳でも、「私の発言などすべて無価値だ」と思っている訳でも、全然ない。私は自分のことを否定も肯定もせず、ただ「そんなもんだ」と思っている。そして「私の言葉はここに無い方が、きっと世界のすべてが上手くいく」というような漠とした確信だけを、いつの間にか体の中に深く濃く沁みつかせて生きている。

こうした話をすると、「もっと自信を持て」とか「自分を卑下するのは良くない」とか「そんなに周りに気を遣わないで」とか、そんな類の”あたたかい励ましやアドバイス”(?!)をいただいてしまいかねないのだけれど、そういったことのすべてが「そういうことじゃないんだけどな」という自分とこの世界とのズレを再確認することにしかならない。


人見知りであることの言い訳を少しさせてもらうとすれば、一つ目に、私は受け止めたり発したりする言葉の一つひとつに対して、必要以上に考え過ぎてしまう傾向があるらしいということだ。

例えば私が、「お元気そうですね」と言われたとする。私は、はてこの人は私のどの部分を見て「元気そう」と判断したのだろう?とまず考える。この人と最後に会ったのはいつだろう?その時と比較して、私の全体の印象として、それともこの人は私のどこかの部分にのみ着目して、「元気そう」と思ったということなのだろうか?それともALS患者に対してこの人の思い浮かべる症状の進行具合や患者像みたいなものと比べて私が「元気そう」に見えるということなのか?いや、どうやら私は今、自分で気が付かないままに思いがけずハリのある大きな声を出して挨拶してしまったのかもしれず、その様子から「元気そう」だと判断されたのかもしれない。いや待てよ、誰かが私について「アイツ最近すっかり弱り切って見る影もないよ」なんて吹聴して回っていて、この人は「なんだ、実際に会ってみたら意外に『元気そう』じゃん」と思ったのかも。いやいやもしかして、周りから見れば私は元気どころか顔面蒼白、衰弱してゲッソリとやせ細り本当はフラフラのヘロヘロといった状態なのだけれど、病人だから気を落とさないようにと気を遣って「元気そう」なんて嘘をついてくれたのかもしれないなあ、などと、どれもこれも確認しようもないことばかり考えてしまう(私は実際に確認してみようと試みて、相手にポカンとされたことが何度かある)。結果、私はどんな内容の返事をどの程度のボリュームで求められているのかが把握できないまま、でもやはり相手の言葉に込められた正確なところを確認したいという欲求も抑えきれずにフリーズしてしまって、またまた相手に余計な気を遣わせてしまうか、「ちょっと変わった人」という(正しい)ラベリングを施されることになる。

そして二つ目に、私の言葉が、喋った相手に対して正確に伝わっているかどうかについて、私はかなり怪しいと思っている。

私の言葉遣いが稚拙で洗練されていないために正しく相手に伝わらない、というのであれば、私は気持ちよくその結果を引き受ける。そうではなくて、相手に対し、丁寧に言葉を選んで自分の考えや意見を伝えた挙句、「なるほどなるほど。病気で不安だから考え過ぎちゃうんだね」などと、喋ったはずの意味内容がほとんど丸ごとスキップされて、何から何まで”落ち込んでいる難病患者の気分の問題”にまとめあげられてしまうのは何とも辛い。どうせ何を発言したところで、”まともに思考できなくなっている弱り切った病人”というフィルターで補正され、言葉を言葉の通りに受け止めてもらえないのであれば、初めから何も話さない方がマシである。


それに比べ、こうしてブログに文章を書くことは、私にとって喋るよりも遥かに気楽である。何よりもいいのは、私の書くものに興味の無い人は読まなくて済む。不覚にも読み始めてしまったという場合でも、私に気兼ねなくいつでも途中下車してもらえるし、「気色悪い文章だな」とか「ヘタクソで意味わかんねえ」といった正直な感想を、思い思いの場所で存分に口にしてもらうことができる。そして読んでくださった一人ひとりにとって、「これを書いたやつは頭がどうかしているから、うっかり近づかない方がいい」という、今後の行動の目安を提供することもできる。

考えてみれば、そういう意味では私は随分と臆病なのかもしれない。退屈で面白味のないやつだなあと目の前で不機嫌な顔をされたり、おまえの言うことは考えが甘いしズレまくっていてどうしようもないと面と向かって指摘されたりするのを恐れ避けているだけのかもしれない。私のことを気にくわない人に出会ってしまうのが怖いから、面と向かってそう言われてしまうのが嫌だから、私は文章の背後に引きこもり、一方的に自分の文章だけをそっと提示してみせ、もう”わかっている”から、だからそれ以上言わないで、どうかもう勘弁して、と、ブルブル震えているだけなのかもしれない。

そして私が目の前にいる人に対し、会った瞬間から「私のことには興味が無いであろう」と感じてしまうのは、反転して「私が相手に興味が無いから」なのかもしれない、とも思う。私があなたに興味がないように、それと同じように、あなたも私に興味なんてないでしょう?という訳だ。でもこれは、半分正解で、半分は不正解だ。私が相手に対して大いに興味があったとしても、私は相手が「私のことにはまったく興味が無いであろう」と確信する。その理由はやはり、私が「私であるから」なのだ。



書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

書くこと。学び、考えること。難病ALSに罹患し、世界や自分のあり様を疑う戦慄の時間。生きた証として書いていきます。 satohiromi.amebaownd.com/