原罪のヴェール

この文章を読むほとんどの人は、わたしの言うことを訳の分からないことと歯牙にも掛けないであろう。しかしそれでもわたしは書かずにいられない。わたしがいた証として。どこかにいるはずの、わたしの仲間に向けて。


わたしはわたしが、いつだって他者から受け入れられず、否定され、軽んじられ、無視され、後回しにされ、責められているという感覚を常に持っている。そこに理屈は無い。「わたしがわたしであるから」、他者からそういう反応をされ対応をされるのは当然なのであろうとわたしは自然に思う。わたしは原罪のヴェールを身にまとい、これまで生きて、今もこうしてここにいる。

ここで重要なのは、わたしがまったくのダメ人間だからとか、劣っているからとか、そういう理由からわたしはそうした感覚を抱くのではない、ということだ。わたしはわたし自身のさまざまな態度や振る舞いを反省し改善したいと考えている。しかし自分の何もかもを一切合切ダメだと否定的に捉えている訳ではない。わたしが具体的に何を考え、どんな振る舞いをしたのかなどといったことは、わたしがわたしについて抱える、根源的な感覚とほとんど無関係である。唯一点、わたしはわたしであるという理由において、わたしはいつだって他者から受け入れられず、否定され、軽んじられ、無視され、後回しにされ、責められて当然なのだと、わたしは感じるのである。

実際、それなりの理由もない訳ではないのだと思う。気が利かないとか、頭の回転がよろしくないとか、ものを知らないとか、空気が読めないとか、人間不信であるとか、細かなことでも気になってしまうと受け流せないとか。そんなわたしの性格や能力的なものが他者に(そして何より自分によって)繰り返し否定的に評価されてきた経験は、わたしがここで語る感覚にまったく影響しないという訳ではないだろう。そしてもちろんわたしは自らの間違った行為や考えを後悔し反省することも日常茶飯事である。しかしそんな具体的あれこれを、わたしはここで語っているのではない。わたしはわたしであることをやめない限り、いつだって自分以外のすべての人からあらゆる瞬間において責められ続けるのだという、この皮膚に脳にしっかりと縫い込まれ彫り込まれている確信について、わたしという存在を覆い包み込むヴェールについて、わたしは書いている。責められる理由に心当たりがあるかどうかなど、ここでは意味を持たない。わたしがわたしである限り、わたしは未来永劫、存在そのものを責められ続け、わたしはわたしである限り一切の反論も出来ないのである。

こうしてわたしがわたし自身について自ずと抱いてしまう感覚も、わたしの大事な一部である。この感覚に自ら追い込まれ疲れ果てて、わたしとして生きることをやめ、いのちを終えてしまいたいと思うこともあるが、わたしの大事な部分を切り離し手放したいとか、矯正して別のわたしになりたいとは思わない。このままわたしとして生きて死んでゆくにあたり、こんな人間がいたということを、わたしは書き残したい。わたしがいた証。感覚という、他者が否定し押し潰し矯正し書き換えるべきでない、かけがえのないものを、わたしは書き残すのだ。どこかでこの言葉に触れることがあるかもしれない、わたしと同じわたしを持った、大切な仲間に向けて。

わたしはここにいると。



書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

書くこと。学び、考えること。難病ALSに罹患し、世界や自分のあり様を疑う戦慄の時間。生きた証として書いていきます。 satohiromi.amebaownd.com/