書くということについて
正直に白状しましょう。私にとって、こうして人の目に触れる場所に文章を書くことは、とても大きな勇気を必要とします。
求められたことや伝えたいことを自由自在に文章にできる職業作家や評論家のような方たちにとってどうなのかはわかりませんが、少なくとも私にとって、自分の思いや考えを文章にし、他人様に読んでもらうという行為は、自分の未熟さや拙さが洗いざらい露呈してしまうことの恥ずかしさに打ち勝ち、文章を読んでくれた友人知人らが私に幻滅して立ち去ってしまうかもしれないリスクを負いながら、勇気を奮い起こして実行される挑戦なのです。
言い訳になってしまうかもしれませんが、そもそも私は器用な人間ではありません。読んだ人が得心するような話をユーモア交じりに披露したり、新しい視点や知識を理路整然と提示してみせたりといった手品のようなことはとても出来ません。全身全霊、躊躇いも煩悶も混乱も、一切合切を丸ごと集めてゴツゴツの石ころにしたような文章を叩きつけるというやり方しか、私は持っていないのです。
そう、そうなのです。私という人間は、たかだかこんな程度の知性と、こんな程度の教養と経験と、こんな程度の誠実さと寛容さと良識とリテラシーと、こんな程度の言葉と表現力しか持ち合わせておらず、こんな程度の世界の見方しか出来ない人間なのですと、私は文章を書くことで、わざわざ世の中に向けて自分の恥を晒しているようなものなのです。
自分が最近読んだ本をいちいち公表するということについても、私は大変な覚悟を持って行っています。おそらく私だけではなく多くの人にとって、自分の本棚を公開し他人にジロジロ眺められるのはあまり嬉しいことではないであろうと想像します。興味関心や好きな作家、本の選び方のセンスやその時の気分、内容の難易度や好みの文体など、手に取った本を知られてしまうということは、私にとってまるで自分の頭の中を覗き込まれているのと同じような感覚がします。
しかも、私はこのブログに「読書メモ」を投稿するにあたり、承認欲求のための読書、「こんな本を読んでいる人」を気取りたいためだけの読書はしないと約束しました。読後の感想はどうあれ、興味であろうと気分であろうと必要であろうと、その時に実際に手にして最後まで読み切った本だけを、私はそのまま記録しています。
ではなぜ私は、嫌だとか恥ずかしいとか愚図愚図と面倒な文句を口にしながら、このようなマゾヒスティックなことを敢えて行っているのでしょうか。答えはとてもシンプルです。それは常に自分を更新してゆきたいから。自分が「今」よりもっとマシな人間になってゆきたいからです。
読むことと書くこと。これらは私にとって、生きることそのものであるといってもよいくらい重要な行為です。読み、書いたものは血肉となって、誰にも奪われずに私の中に蓄えられます。私は私としてしか世界を見ることが出来ず、読むことと書くことは、その私を構成する大事な要素となるのです。
しかしそれならば、自分の中だけで好き勝手にやっていればよいことなのかもしれない。恥ずかしさに堪えリスクを負いながらわざわざブログという形でネット空間に放出する必要はありません。しかし私は投稿し続けます。批判や冷笑や困惑や無視や、そうした反応の一つひとつに対して足を踏ん張り、顔を上げていられるものを書くことを目指します。一人称で書いているか。自分の言葉で書けているか。誤魔化していないか。嘘をついていないか。いい人ぶってはいないか。賛同や称賛を求めてはいないか。私の死後も堂々と、私自身が書いた文章としてこの世界にあってよいと思えるものになっているか。
<飾らず、偽らず、欺かず>。ほんとうの自分の今を正しく捉えようとしなければ、そこからの更新は実現しません。少し文章を読んでいただければ、私がどんな程度の人間か、大方知れてしまうでしょう。今更、気取ったところで何の意味もありません。死の際にあってまで、私は自分を飾り、偽り、欺こうとするような人間でありたくはないのです。
そして最後に大事なことを一つ、忘れずに書いておかねばなりません。私には、どうしても書きたい、書かねばならないという強い思いに心が衝き動かされる瞬間があります。怒り、悔しさ、違和感、疑念、不審、無念、失望、かなしみ。こうした情動は決して愉快なものではありませんし、あまり抱え続けていたいものでもありません。しかし、私はなるべくこれらを放り捨ててしまわずに、掌の上に乗せ、あちこちからジッと眺めることにしています。個人的なものであるはずのこれらの感情の中に、私個人のそれにとどまらない何かがあるはずだというささやかな確信のようなものが、私に対しそれらを手放すなと命令するからです。そして私は掌の中にある感情の粒たちが一体何であるのかを分析してゆくために、それらを丁寧に言語化する必要性に思い至ります。こうして悪戦苦闘の末、文章に書くという過程を経ることによって、個人的なものであったはずの私の掌の上の思いは、社会的なものへと繋がり広がってゆく可能性を包含しているということに、私は気付き始めます。書くことの醍醐味と、もっと書かねばという衝動が私の中で小さな爆発を起こす瞬間です。
こうして今も私は、もういい加減思うように動かなくなってしまった指先でポチポチとキーボードを叩いています。私はこれからも、私という人間のどうしようもなさを相棒に、この世界の何であるかに少しでも近づくために、一人称の文章を書き続けてゆきます。
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