バトン

私には、毎日電話をし合う“友”がいる。正確には殆どの場合、電話の後で互いにパソコンを立ち上げ、少なくとも一時間はzoomで話す。
彼女は昭和十三年、広島市の中心地に生まれた。米軍による原爆投下で大好きだった兄を失い、自身も入市被曝した。彼女は子のような世代にあたる私に対しても、常に言葉を尽くし対等に向き合ってくれる。そして勿体ないことに、私のことを“友”だと言ってくれる。
昭和二十年夏。小学一年生だった彼女は、広島市内から約30キロほど離れた親戚の家に、いわゆる縁故疎開をしていた。近所のデパートの木馬に乗るのが日課だった都会っ子が、いきなり一人、ほぼ面識の無い親戚の農家に預けられたのである。家族と離れ、心細さで胸が張り裂けそうな日々。そして八月六日の朝がくる。彼女は転校先の小学校の校庭で、3機のB29が機体をキラキラさせながら市内の方向へ飛んで行くのを見たーー。
私が彼女と出会ったのは2019年。用事で広島市内に滞在していた私は、東京に帰る日の前の晩、広島で平和運動を実践するNPOの理事長である彼女にドキドキしながら電話をかけた。私は、前日に名刺交換をしただけでまともに話したことのない彼女に、平和公園のガイドをして欲しいと頼み込んだのである。このままでは原爆ドームにも平和公園にも訪れず何も学ばないまま帰京してしまうことになりそうで、それは絶対に嫌だと訴える私に、彼女はただ一言こう言った。「どこのホテルに泊まっておられるんですか?」
次の朝、タクシーで迎えにきてくれた彼女は私の車椅子をトランクに積み込み、タクシーを平和公園へと走らせた。「何時の新幹線?」彼女は私の時間を気遣いながら車椅子を押す。平和公園に立つ碑を巡りながら、東京から来た無知で図々しい馬の骨に対し、広島人として、被爆者として、丁寧に心を込めて解説をしてくれた。
この日をきっかけに、私は彼女から、彼女の続けている平和活動のこと、そして、広島のことを少しずつ、少しずつ教わり始めることになる。軍都・広島。被爆地・広島。国際平和都市・広島。出来の悪い教え子に辛抱強く語り続ける彼女の記憶は鮮明で、その言葉は率直で豊かで誤魔化しがない。
気付けばヘッドセットを装着しながら、八十代半ばにして毎日当たり前のように東京とzoomで繋がり、子のような歳の“友”と冗談を言い合えるのも、彼女の何事も容易には諦めない精神力と、ご家族やスタッフの方々や、彼女を支える素晴らしい人たちの存在の賜物だろう。諦めないことの大事を知り、理想や夢を決して手放さない彼女は、非常に聡明で、繊細で、大胆で、自由で、カッコいい。
彼女の“友”でもある東京の教え子は、相変わらず出来が悪く困ったものだけれど、それでも毎日楽しそうに自習に取り組んでいる。世界へ、子どもたちの世代へ“平和のバトン”を渡したいという彼女の思いを、ほんの少しでも手伝えるような人間になりたいという、その一心で。

書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

書くこと。学び、考えること。難病ALSに罹患し、世界や自分のあり様を疑う戦慄の時間。生きた証として書いていきます。 satohiromi.amebaownd.com/