無題

 ALSという病気について、あるお医者さまからなるほどと思う言葉を聞いたことがある。病気の確定診断を受けて立つ<今ここ>の地点と、最後に至る<ゴール>、それしか示されない病気である、ということだ。患者自身が捉える<今ここ>の地点は明快だ。自分がALSという病気であるという現実、そして現在残された体の機能がどの程度か、という現実は日々確認されない瞬間はない。それはほとんどの場合、患者自身が一番よくわかっている。そして最後に至る<ゴール>、不治の難病であるALSにとってのそれは、全身の筋肉が動かなくなり自発呼吸もできなくなって、そんなに遠くない未来に確実に死ぬということだ。<今ここ>と<ゴール>は明確に示されているが、その途中でどのような道を辿るかは誰も教えてくれない。それは病状の進み方や進行の速さという意味において個人間でバリエーションの多い病気であることもそうだが、次第に身の回りのことすらできなくなっていく患者自身が、各段階で医療や福祉、社会や周囲からどんなサポートを受け、どんなことを考え、難儀をし、苦しみ、徐々に何を受け入れ、何を捨てきれずに、生きるのか。ある程度のヒントは手に入れたり想像したりすることは可能であるにしても、誰も具体的には示してはくれないということだ。私も、自分の<今ここ>はある程度理解しているつもりだが、あとどれくらいで辿り着くかわからない<ゴール>までの地図はほぼ真っ黒だ。

 その地図にも、患者なら誰もが通る大きなチェック・ポイントが一つ示されている。それは、自発呼吸ができなくなるというポイントだ。そのポイントで延命措置を施して何とか命を繋ぎとめるか、何もせずに死を選ぶかは、患者自身で選択しなければならない。しかも、そのポイントに到着してしまった時点で選択するのではもう遅いのであって(もし仮に、救急搬送をされ意識不明のまま本人の”意に沿わない”形の処置をされてしまったら、もう後には引き返せない)、病気の診断を受けた時点で「早く決めておいてください」と医師から事務的に告げられる(少なくとも私の場合はそうであった)。

 この意志決定が、当事者にとってどれだけ残酷なことか。私は「仕方がないよね。もう割り切って残りの時間、前向きに生きた方が得だよね」というような発言を周囲の人たちの口から何度か耳にしたことがあるが、私にこうした発言をする人にとって目の前にいる私は「難病でもうすぐ死んでしまう人」としてセンセーショナルにわかりやすく表象されるただの”影”なのだろう。自分たちと同じように、生きてきた長い人生と溢れそうな感情と皮膚の下に静かに膨らんでいるこれからの夢や大切にしたいものを持つ生身の人間であることなどもはや想像できないのだ。私は、それを聞く私の思いを1ミリも想像しない「割り切った方が得」という言葉を聞きながら、他人事というのはまさにこういうことだと感じ、さっさとこの世界からいなくなりたいと脱力する。

 そしてここからは「私自身の場合」と注意深く限定して話をしなければならないが、何より苦しく残酷なのは、私がいなくなることで、(多少極端な言い方になるかもしれないが)私にとって一番身近な人たちはメンドクサイことを避けられるという現実だ。これはキレイゴト云々の話ではない。私自身は、どんな命も、誰の命も、そこにあるというだけで尊いと、心から信じている。でも、そんな私でも、自分自身の命の危機とそれを取り巻く現実に直面する中で、生き続けることへの揺らぎが日増しに強くなっていくのを止めることは不可能だ。こう言うと、「いや、あなたには死なないでほしい」という声の一つや二つくらいもしかしたらあるかもしれないが、それは遠い異国の貧しくお腹を空かせ痩せ細った子どもに「死なないで」「あなたの命は大事だ」と言っていることに等しいと感じる。そこには何の責任も苦労も負わず、安全な高みから気の向いたときだけ命の大事さを説く姿がある。第一、他人に対して積極的に「おまえなぞ死んでしまえ」と言える人は私の知る限りたぶんほとんどいない。私に対し「生きていて」と一瞬も悩まずに発言できる人はきっと、私の介護で実際に毎日ヘトヘトになる心配はこれっぽっちもしていない。きっと「死なないで」「あなたの命は大事だ」と社会的に正しい発言をしたことに満足し、自分が”善人”であることを確認した後は、そんな命のことはあっという間に忘れてしまうだろう。ある瞬間、自分を十分に”善人”だと感じさせてくれたその命にもう利用価値はなくなり、夕飯に何を食べるかという程度の興味の前にすぐに忘れ去られてしまうだろう。だからといって「あなたの責任は何だと考えるか」と私が問えば、「なぜ私がそんなことを考えなければならないのだ」とキレられるだけだ。他人のために自分が苦しむなんて不条理からは一刻も早く逃れたい(たとえそれが「考える」というだけの苦痛であっても)。その証拠に、テレビもSNSも、安全地帯から”かわいそうな人たち”を眺めるだけの、自己愛と優越意識を隠し切れないコメンテーターでギュウギュウ詰めだ。

 重要なのは、私はそれを心底気色悪いとは思うが、いいとか悪いとか言っているのではないということだ。私は「きっとそんなものなのだ」と考えている。私にとって興味があり大事なのは、こうした「そんなもの」で満たされ溺れそうな私にとっての”世界”というものを出来るだけ冷静に把握したうえで、さて自分はどう生きるか、ということである。私は社会がどのような人にとっても(私のような人間にとっても)住みよいものになってほしいと心から願うし、もちろんそのための努力をしたいと考えたりもするが、とりあえず今の自分は自分一人すらも救えていない。目の前に落ちているごみを拾うどころか、自分のことで手一杯なのだ。


 そして私は、こうした文章が多くの人には好まれないどころか反発を招くことも十分に理解している。読む人は”当事者”である私に、自分を「正しい人」だと安心させ面倒なことなど考えずにいさせてくれる、謙虚で、わかりやすく、前向きな言葉や、「何かをわかった気にさせてくれる」言葉を望むだろう(「誰だって明日交通事故で死んじゃうかもしれないわけだし~」といった、絶対に自分だけは明日死なないと信じ切っている人たちの、その場しのぎの空疎で無意味どころか人を馬鹿にしているとしか思えない”慰め”の言葉を、私は今まで何十回聞かされてきたことか。確率的には確かに明日交通事故に遭う可能性はゼロではないが、そう発言する人に「もうすぐ必ず死ぬのだ」という残酷で確かな現実と常に向き合いながら生きねばならない人への想像力を持てといっても無駄だろう)。そして、”世界”は信頼と希望と可能性に満ちたものだと信じたい気持ちに水を差され、自分の善性への確信が一瞬でもグラついてしまいかねない空気を察知して、きっとモヤモヤと気分が良くないことだろう(私の文章ごときでは何とも思わないならそれはそれでいいのだけれど)。また、自分の身内は、家族は、皆に囲まれてあんなに幸せそうに命を全うしていったじゃないか、と私に言いたい人もいるだろう。もちろん私はそういう個別の方々の幸せな時間まで疑い否定している訳では全くないし、私は私自身について感じていることを正直に書いているだけだ(それくらいしか語れない)。「だとしたら一体、どうしたらいいっていうのだ」という声もありそうだが、悪いけれどそんなこと私は知らない。何かしたいと本気で思うなら心行くまで悩みぬいて行動すればいいし、今晩観るテレビドラマのセリフと入れ替えに忘れ去ってしまってもいい。そして、気分を悪くされ不愉快だ、と感じる人は、私のことなど切って捨ててもらっても私は一向に構わない。

 最後の最後の瞬間まで「誰かの期待」に応え、自身への評判や誰かの顔色などと引き換えに自分の感情や思考までも誤魔化し続けた挙句、もうすぐこの世からいなくなってしまうのは悔しいことであるし、何より自分の、そして自分にとっての世界の今を正しく捉えようとしなければここから先の道を迷うばかりで、よい時間を得ることはできないと思ったので、<今ここ>で思うことを率直に書き記した。「本当のこと」を知ろうとする態度と、それを書き記すことだけが、私自身を救うと思っている。

 最後に一つだけ。私と同じような病気でなくとも、今、力尽き膝を折りそうになっている人がいて語る相手を探しているのであれば、私は手を取り語り合いたいと思っているし、私のような人が在ることを伝えることで少なくとも、あなたは一人ではないと思ってもらえたら嬉しく思う。

2020/8/26

書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

書くこと。学び、考えること。難病ALSに罹患し、世界や自分のあり様を疑う戦慄の時間。生きた証として書いていきます。 satohiromi.amebaownd.com/